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関西プラッと便 万葉の里、明日香路を歩く

関西プラッと便

2014年3月14日掲載

  「飛鳥京」があった奈良県明日香村は、高松塚、キトラ、石舞台などの古墳をはじめ、猿石、酒船石など奇妙な形の石が並ぶ、古(いにしえ)の都で、万葉集の古里として知られています。日本の詩歌発祥の地を歩き、万葉歌人のロマンと哀情にふれ、文学的な感慨に浸りました。

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■万葉の景観を守った犬養孝さん
  まず、訪れたのは「南都明日香ふれあいセンター犬養万葉記念館」です。万葉風土学の第一人者だった国文学者の故・犬養孝さんは明日香の地が万葉の古里だとして、第一線に立って村の景観を開発の波から守りました。その犬養さんが愛した万葉の自然、風土、歌の心、人の心を大切にするために造られたのが、記念館です。学芸員の辰己和余さんは「犬養さんは常々、『万葉の風土は、歩かなければわからない』と話されていました。歌の舞台となった場所に立ち、万葉の歌人がどのような思いで歌を紡いだか、想像して下さい」と話します。

■天武、持統天皇の都・飛鳥浄御原宮(きよみがはらのみや)
  記念館からすぐのところに、飛鳥京の代表的な史跡があり、「伝飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)跡」と呼ばれています。遺跡調査の結果、飛鳥時代の歴代天皇が何度も都を置いた跡があり、天武天皇が壬申(じんしん)の乱(672年)で大友皇子を破った後に都とした飛鳥浄御原宮(672~694年)もここだと言われています。天武の皇后だった持統天皇(鵜野讃良皇女)の時代も都になりました。ここから飛鳥寺を見渡す地域が真神(まかみ)の原と言われ、今はのどかな農村風景が広がります。京都や奈良市内のように大きな神社、寺院がなく、ひなびた雰囲気が漂います。
  ここを舞台に多くの歌が残っていますが、その一つに天武天皇の強い権力を示した歌があります。
  「大君(おほきみ)は 神にしませば 赤駒の はらばふ田居(たゐ)を 都となしつ」  大伴御行(おおとものみゆき)(天武天皇は神であられるから壬申の乱のあと、赤駒・あかうまが腹ばう田を都となされたよ=犬養万葉記念館に協力する会の訳)
  天智天皇が亡くなったあと、わずか40人の手勢で戦いを起こして近江朝廷軍を破り、即位した天武天皇(大海人皇子)。さらに、馬が足を取られる湿地も都にしてしまう神業のような光景を前にして称賛したくなったのでしょう。天皇の権威が増し、天皇は神であるという思想が生まれてきた時代に入ったことを表しています。2012年には、この歌を裏付けるように、甲子園球場2倍分の広さに、10トンダンプ約3500台分の土が運び込まれて造成された跡が見つかっています。いったいどれほどの人の手がかかったのでしょう。想像もつきません。
  そんな天武天皇も都を自慢するような歌を、妃の一人、藤原鎌足の娘に贈っています。
  「わが里に 大雪降れり 大原の 古(ふ)りにし里に 降らまくは後(のち)」(私の住む浄御原宮に大雪が降ったよ、大原の古ぼけた里に降るのはもっと後だろうよ=同会の訳)
  歩いてもすぐの場所で、同じように雪が降るはずの大原に住む妻につまらない冗談めいた歌をなぜ贈ったのでしょう? 犬養さんの著作によると、この地域は、雪は珍しくてめったに降らないそうです。政務に追われる天武天皇が、雪が降って心おどる気持ちを一緒に感じてほしかったのでしょうか。親愛感にあふれた歌のように感じます。

■夭折のプリンス、草壁皇子
  ここから、南に歩いて約20分、石舞台古墳のそばに天武、持統両天皇の間に生まれた一人息子、草壁皇子の邸宅だった嶋の宮跡があります。皇太子だった皇子は二人の後継者として大いに期待されていましたが、病弱で皇位に即位することなく、28歳の若さで亡くなります。皇子に仕え、600人いたといわれる舎人(とねり)たちも途方にくれたでしょう。
  舎人の一人は次のように歌を詠んで皇子の死を悼んでいます。
  「嶋の宮 上の池なる 放ち鳥 荒びな行きそ 君いまさずとも」 (亡き草壁皇子の嶋の宮の上池の放し飼いの鳥よ、心荒れるな皇子が居られなくとも=同会の訳)
  皇子を亡くして悲しみの余り、張り裂けそうになる心。そんな舎人は鳥も悲しんでいるように見えたのかもしれません。皇子が天皇に即位するのを祝いたかったのにできなかった無念さが伝わってきます。

■夫の遺志を継ぎ、藤原京へ遷都
  22年にわたり都だった飛鳥浄御原宮ですが、中国・唐のような条坊制を敷いた大きな都の造営を夢に描いていた天武の遺志を継いだ持統天皇が藤原京を造り、遷都を決行します。夫だけでなく最愛の草壁皇子を失いながら都を遷し、治世に尽くした持統は強い女性だったようで、天武同様に神とあがめられます。
  持統天皇が飛鳥の雷丘(いかづちのおか)に行幸した時に柿本人麻呂が詠んだ歌があります。
  「大君は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬(いほ)りせるかも」(持統天皇は神でいらっしゃるから天雲の上の雷丘に宮をお造りになられることよ=同会の訳)
  雷神をも従わせる力を持った天皇を最高神と礼賛した歌です。雷神が住む丘というので、さぞかし大きな丘かと思っていたのですが、あまりにも小さな丘なのでびっくり。これも、万葉の世界ならではです。
  持統天皇はその後、草壁皇子の子供で、孫となる文武天皇に譲位し、死後は天武天皇と同じ陵に埋葬され、2人の陵は近鉄飛鳥駅そばにあります。

■さびれる飛鳥京を詠む
  藤原京に都が遷った後、飛鳥に都が戻ってくることはありませんでした。時が移り、忘れ去られる都を詠んだ歌があります。
  「大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに」 舎人娘子(とねりのをとめ) (大口の真神の原に降る雪は、烈しく降らないで、宿る家だってないのだから=同会の訳)
  送り出した人が無事でありますようにと願った歌なのですが、飛鳥の都は廃虚さえ残っていない原野に戻ってしまったのでしょうか? 雪の原に寒々とした寂寥感が漂います。

■今も吹き続ける明日香風
  最後に、伝飛鳥板蓋宮から北西に約1キロ離れた甘樫丘(標高148メートル)に登ってみました。歩いて10分ほどの丘の展望台から見下ろすと、飛鳥の都がなんと狭い地域にあったのか、そして、なんとのどかな風景のまま残されているのか、万葉の里を大切にし続けた犬養さんや、地元の人たちの愛情に感銘を受けます。
  登る道の途中に天智天皇の子、志貴皇子が詠んだ歌の碑がありました。碑の揮毫(きごう)は犬養さんです。
  「采女(うねめ)の 袖吹きかへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く」 (飛鳥宮の女官の袖を吹き返した明日香風、藤原京に移った今は、遠くむなしく吹くよ=同会の訳)
  明日香の風は1300年後の今も、万葉ファンの心の中で吹き続けています。

★古代食を復元『飛鳥の蘇(そ)』
  飛鳥寺そばの売店で古代の珍味「飛鳥の蘇」を見つけました。7世紀末に和製チーズの「蘇」を作ったという記録をもとに作ったもので、しぼりたての牛乳を7~8時間火にかけて水分を取ったもので、かんでいるうちに自然の甘みを感じます。このほかにも、古代米の赤米、黒米も売っていました。

〈万葉集〉
  現存最古の歌集。仁徳天皇が詠んだといわれる歌から淳仁天皇時代までの約350年間の長歌、短歌など約4500首を収録。編集は大伴家持を含むと言われています。

〈飛鳥と明日香〉
  一般的に、「飛鳥」の表記は時代や都の名前、川の名前に使われています。「明日香」万葉集に記されます。明日香村は万葉集にちなみました。  伝飛鳥板蓋宮跡は飛鳥時代(7世紀)の宮殿遺跡の史跡名です。三時期に大別され、同じ場所に歴代天皇が宮殿を建て替えられています。上層の飛鳥浄御原宮(天武、持統天皇)、後飛鳥岡本宮(斉明天皇)は確定、それ以前の板蓋宮(皇極天皇)、飛鳥岡本宮(舒明天皇)もあったとみられます。

〈壬申の乱〉
  天智天皇の死後、長子の大友皇子を擁する近江朝廷と天智の弟、大海人皇子(天武天皇)が戦い、大海人側が勝利しました。1か月あまりの戦いの後、大友皇子は自害。

〈藤原京〉
  持統天皇の694年から文武天皇を経て元明天皇の710年に平城京に移るまで三代16年続いた都。橿原市高殿を中心とする大和三山に囲まれ、東西約2キロ、南北約3キロの条坊制の都。

〈南都明日香ふれあいセンター犬養万葉記念館〉
  開館時間 午前10時~午後5時。月曜日と年末年始(12月25日~1月5日)休館(祝日、振替休日の場合はその翌日)。ただし、4・5・10・11月は無休。
2014年7・8月はリニューアル工事のため約2か月休館。入館料 一般300円(団体20名以上は250円) 学生(小・中・高生)200円(団体150円)
アクセス 近鉄橿原神宮前駅東口または、飛鳥駅から奈良交通明日香周遊バスで明日香観光会館前バス停下車徒歩3分 問い合わせは明日香村岡1150 犬養万葉記念館
(TEL:0744・54・9300)

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